真面目な話



真面目な話

自殺について適当に。

YAHOOニュースより   2003年7月25日

昨年1年間の自殺者は前年に比べ3・5%増の3万2143人で、5年
連続して3万人を超えたことが24日、警察庁のまとめで分かった。
 全体の約60%が50代以上の中高年。「経済・生活問題」による自殺は7940人と1978年に統計
をとり始めて以降最多で、リストラや借金など景気低迷による影響を浮き彫りにした。
  原因・動機別では最多の「健康問題」が1万4815人で、前年より316人減少。「経済・生活問題」は
7940人で、前年より1095人も増えた。(共同通信)

コレが社会の現実なんですよね。ニュースでは毎日、通り魔やら殺人事件やら人々の興味を引くニュー
スのみを選り好みされて報道されている。しかし、その影でたくさんの人が他の人に知られることなくひ
っそりと死んでいる。

誰もが自分という存在を風化させたくない。そう願っているだろうに。

誰もが自分の死を悲しんで欲しいそう願っているだろうに。

誰もが自分を失った世界が歯車を歪める事もなく回り続けていく  
          事に悲しみを抱くであろうに。

誰もがこの世界に残した愛する人々に対する責任を果たせない  
           事に涙を流すであろうに。

日本のみでも1億数千万人もの人間がいるのに、一億数千万人いてもたった3万人に希望を与える事
が出来ない。助ける事が出来ない。そして、多くの人がそのような現実を知らず、知っても何も出来な
い。

ある人は自殺者を「社会不適合」で片付け、またあるひとは「弱虫、人生から逃げ
た。」と言う。そういう人に私は尋ねたい。

あなたは自分の手首を切ろうとした事はありますか?その行為がどれほどのものか、あなたは知って
いますか?

自分が確固こたる意思を持って手首を切ろうとしても決して身体は許しません。死のうと思う事は簡単
ですが、それを実行する事の難しさは体験しない限りわからないでしょう。

まぁこれは最近流行の七輪などを使った自殺では感じないですけど。

多くの人は自殺未遂で留まります。これは自虐的というか、回りに対するアピールなので元々死ぬ気は
ないように思いますが、精神状態によっては自殺に達する事も大いにありえます。手首を切るには、又
は首吊りなどするは生半可な決意では行なえません。そこには社会に、将来に対する

          恐ろしいまでの絶望・恐怖が必要です。


       その絶望を私たちが彼等に与えているのです。

ある人は「人生はこれから、楽しい事が待っている」と言うでしょう。しかし、今が耐
え切れないほど辛い人に、どんな幸福な将来がイメージできるのでしょうか?

出来るはずがない。出来るのは、生きる希望がある人、生きたいという確固たる意思がある人だけの
ように思われます。

彼等は生きたいという意思はあってもその先に希望を見出せないから絶望するんじゃないですか。

自分はお婆ちゃんに(80代)に「長生きしてね。」といった時、

「もういいわよ。これ以上生きても仕方ないでしょ。迷惑かけるだ  
              け。」と返されました。

その時の自分は「そんなことないよ、迷惑なんかじゃないよ。」と返しました。本当にそう思った。しかし、
同時に私はこう考えました。

「彼女にもはや将来はなく、衰え、失っていくのみの生活。人に迷惑をかけるだけの生活、そこにどうや
って彼女は生きる意義を見つければいいのか?」

蓄えた知識も失っていき、友人も、5感も、身体も、全てを失い、次第に家から外に出なくなり、彼女自
身、もはや自分の存在意義を失っているのかもしれません。

私には彼女に存在意義を与える、又は考えさせる手助けも出来ませんでした。私は酷く憂鬱な気分に
なった事を覚えています。

あなた(私)が老後そうなった時、自殺する事はないといえるのでしょうか?


もし、そこに家族の愛がなかったら・・・。そこに生きるためのお金す
らなかったら・・・。そこに絶望的な病気があったら・・・。生きる先には
愛する人(家族)への迷惑しかなかったら・・・。孤独な生活しかなかっ
たら・・・。


私は自殺を肯定する気なんてありません。しかし、自殺する事を完全に否定する事も出来ません。私た
ちは常に傍観者の立場から理由をつけて「死ぬな!」といいますが、「死ぬな」といった私たちが彼等の
ために何かするわけではないですから。

 あなたに他人の人生を背負ってまで、重荷を背負ってまで人   
        助けをする勇気がありますか?

人はそこまで強くありません。あなたにもできないでしょうし、私にも出来ないでしょう。いかにそこに大き
な愛・家族があっても介護疲れでの自殺、殺人なんてケースはもはや珍しくありません。

ならば、せめてそのような苦しみを生まない、苦しみを共有できる社会造りが必要なように思われます。
現在の社会・世界はそのような方向に向かっているのでしょうか?

そして個人としては日々、何時死んでも悔いのないよう、力いっぱい生きる事が必要なんです。それが
いかに難しい事かは誰しもが理解できるでしょう。私にはどうすることが力いっぱい生きていると言う事
なのか定義は出来ませんが助言は出来ます。

昔聞いた話で、「私たちは、自分を見つめる鏡が必要である。」とあった。つまり、夜にふっと、目がさめ
た時に「自分が今してる事は、自分がやるべき、やりたいことなのか?、自分のしている事は正しいの
か?今の自分の生き方でいいのか?」等と自問自答するもう一人の自分(自分を映す鏡)を持つ必要
があると言う事です。

その行為は場合によっては数年・数十年かけて築いた価値観を狂わせかねない危険な事ですが、それ
が出来る人はめったに道を踏み外さないし、どう生きるべきかが自分の本心に素直に、より鮮明に見え
てくるでしょう。

まぁ、そんな事をしなくても手っ取り早い事は、今やるべき事を全力でやる。そうすれば、
他の物は後からついてくるものです。

私たちは亡くなっていく、亡くなった先人のため、新しい命のため、自分のため、日々を一生懸命生きま
しょう。生きなければいけません。生きなければもったいない。顔が悪い、頭が悪い、運動できない、障
害がある、病気がある、借金ある、仕事大変、色々あっても少なくとも考える事が出来るように生まれた
なら人として一生懸命考えて生き抜いていく力はあるんですから。


では社会はどうすればいいのか、





    俺を首相にしろ
   (ようやく落ちた。 笑 


あ〜あんまり長い事シリアスに書いてたらとてつもなく恥ずかしい+重い文章になってシモウタ。偉そう
な事書きましたけど、自分はまだ地獄を見るような体験してないんで勘違いあるかもしれませんが、(ま
事故ったり、病気で死にかかった事はあるけど覚えちゃいない 笑)俺の勝手な意見なんで勘弁して
やってください。

文句・反論・俺を調教するってな意見は真摯に受け止めるけど抗議のウイルスとかは無しね〜。



宅間死刑囚について考えちゃいました。

「無差別大量殺人に栄光あれ。」

これ例の宅間死刑囚の法廷で言おうとしてた言葉らしいっす。皆さんはこいつについてどう思います?

彼の行動について多くの人は理解できないでしょう。しかし、俺、理解できちゃう(汗

いや、痛いほど理解できちゃうんスヨ。こんな事かいてるからって俺のことも変な奴と思わないでね(汗 

心理状態はわかりますし、同じようなこと思った事はありまス。

普通の人は宅間死刑囚と同じ事思った事ある人多いはずだよ。「死んでやる!どうせなら皆道ずれ
で!」って。

実際にそれを行動に移す人はほとんどいない、その一線の違いが大きな違いではあるけどね。

彼は自分の不幸せな境遇から幸せな他人が許せなかった、何故俺だけ?自分は生まれ持って不遇の
元で育ち、苦痛の中で育った。

人格形成に支障をきたし、人と上手く関われなくなった。

彼は親の責任を強く訴えた。

俺がこんななのも、俺ができる事も出来ない事も全て親の遺伝子次第。

そう考える事について理解できない人は大抵が才能溢れる人だと思われる。

例えばスポーツ、本当に運動神経のない人が幾ら練習してもそこそこ以上には行かない。絶対。努力
では埋まるものと埋まらないものがあり、それが現実である。

親が音楽家の家では圧倒的に音楽家を輩出する事が多い。

ほんとにブッチャければ生まれた時点で出来る事と出来ない事ある程度制限されていると思うよ。生ま
れてからの環境もあるけど。

現実を客観的に見れば親の遺伝し次第だよ。間違いなく。

ただそれをどう受け取るかの問題なんだよね。伸びるものはある、気がつかなかったけど出来る事もあ
る、別のグランドを探す事も出来るし、無理なんて受け入れないで頑張るという選択肢もある。

ただ、スポーツが全然ダメな人はどんなスポーツでもダメなんだよ、伸びる伸びないの問題じゃなくてそ
ういう現実は逃れようがない、可能性のありそうな選択肢をチョイスして伸ばそうとする事が必要。

普通の人は無意識にでもそれは仕方がない事と受け入れるし、多くの人はそんな事意識すらしないか
もしれない、しかし、彼はそこに固執した。

彼がいかに親という存在に対し様々なことを考えていたのかがうかがえる。

遺伝し次第といえば、努力をする必要はなくなる。だって、できないのは遺伝子のせいなんだもん。とい
う具合に。

しかし、彼が公務員であった事からも(公務員試験とおったんだろうから)全く努力をしない人間ではな
かったように思われる。

不遇な環境の中でも彼なりに努力し、公務員という仕事をえて、家庭を得た。人生の中で少なくとも一時
期は彼なりに努力をし、道を切り開こうとしたのであろう。

しかし、彼は失業、離婚と人生の奈落に落ち、絶望の中日々を過ごす。

どうせ、家でごろごろして日々を過ごしていたんだろう。そんな時、何をかんがえるか?

何故?どこで間違えた?何でこんなはずでは・・・自分に責任を転嫁したら自殺する位しかないんです
よ。

離婚も失業も全て自分のせいだと考えたら今の状況を作ったのも自分のせい、今まで曲がりなりにも
何十年も生きてきた全てを否定する事になるんだから。普通の心を持っていても簡単には受け入れら
れない。

それに小さい頃から自己中だった奴がある日突然自分の責任と自覚しろってのは無理。この歳になる
まであらゆる物事の責任は自分にもある、自己の行動の責任は自己の判断でって教えれなかった社
会も回りの人間も問題。

頼れる友人もなく、親もダメ、ズッと一人で生きてきて、その結末がこれ?そう考えただろう。

彼は極めて自己中心的であったという、つまり、回りの痛みがわからないということ、それは人生の中で
いつでも自己が幸せになる事、自己についてを一番に考えてきたという事。

ある意味、幸せについて誰よりも飢えていた、ひいては愛情に飢えていた。彼は、結局こうなるの?や
っぱ俺はこうなんだ、いつもそうだよ。と思い込む。そして、将来もダメ何だとさらに思い込む。

実は回りに自分の事を思ってくれる人が僅かでもいたことも忘れ。

自分に責任を感じないなら責任は誰にあると思うか?親に、社会に添加する。

また彼には親に責任を転嫁することが止むを得ないと思わざるをえない家庭環境があった。また異常
な彼を生み出したのはある意味社会の責任でもある。

このように親の責任、社会の責任は一定量ある。この事実が彼の中の責任転嫁を正当化し、自分に責
任がないと強く思える原動力になる。

彼は本心から自分に責任はないと思っているだろう、小さい頃に既に親によって壊れた人格を形成され
た自分に他の生き方はなかった、どうしおうもなかった。結局何をやってもいつも結果はこうだと。

全てを失った彼には生きてくうえでの希望はもはやなかっただろう。だから生きていても仕方がない、将
来に楽しい事が想像できない、期待できない、生きていく意味がない、金がない、何にもない。

もういっそしぬか。負け犬みたいに自殺して終わりかよ。いや、自分をを受け入れない、放出した社会
への激しい恨みを晴らしてない、どうせ死ぬなら奴等に天誅を。

でっかい事をして親に迷惑をかけてやろう。俺の苦しみを皆に教えてやろう、幸せな奴らなんて許さな
い。俺がこんな地獄にいるのに楽しそうにしやがって。という具合に。

そこで親に直接被害を加えるという事ではなくて、社会に危害を加えて親に迷惑をかけようと考える当
たりが、宅間死刑囚も人間である事を感じさせるね。

なんだかんだでやってる事の規模は違うけど親にかまって欲しい子供の行動と同じ。

彼は英雄として死んでいきたいと考えている。彼の中では彼は悲劇のヒーローであり、ジャンヌダルクで
ある。

自分は死ぬが社会に一石を投じ、自分は間違ってないと信じ、死んでいく。

将来は多くの人間が俺の行動を賛美し、英雄となるであろうと。本当の英雄になれるとは思ってない
が、彼と同じような考え、境遇の人が多く存在し、同様の事をしてやろうと思っているから彼らの英雄とし
て。

彼にとって遺族の苦しみは心地いいものであっただろう、自分の苦しみを幸せな家族に与える事ができ
た。俺の苦痛がわかったかと。

自分を中心に考える男である、人の苦しみより、まず自分の苦しみ、自分の苦しみを理解してもらうが、
人の苦しみまでは知らんよ。死んでやるんだから文句ねえだろ。

最低である。

しかし、彼と同じような事を考える人は確実に大量に存在する。英雄になるため、また英雄として彼らに
向かって「俺に続け」と訴えるために必要であったのだ。

裁判場で社会に向かって言う必要があった。


         「無差別大量殺人に栄光あれ。」と。


という具合に彼の心理状態を勝手に分析してみました。根拠もなんもないんで俺の想像に過ぎないけ
ど、まぁいい線行ってると思うよ。

遺族の皆さんがこの文章を読んだら怒り狂うでしょう、不快な文章で申し訳ありません。

ただ自分は客観的に彼を分析しただけで、私自身このような卑劣極まりない、形容不能な犯罪を許しま
せん。認めません。

死刑は当然であり、死刑で彼が自身の罪を後悔することなく終わってしまう事に憤りを覚えます。

ただ、彼を生み出したのも社会、その社会を生み出しているのは私たち、つまり、この事件に関わら
ず、数々の凶悪な犯罪を生み出している背景には私たち一人一人の責任がある。という事を訴えたか
った。

彼もある意味では犠牲者の一人であり、私たちが何かをしてこのような社会を変えて行かなければなら
ない。今すぐにもという危機感をもつべきであります。

アメリカで起こる凶悪犯罪と同様のことがだいたい10年後には日本で起こるという話があります。コレ
までほとんどの凶悪犯罪ががこの流れに沿っています。

最近は日本でも幼児へのワイセツ事件が多発していますが、アメリカではミッシングチルドレンという誘
拐された子供が100万人以上いると推定され、2〜3割は離婚した親元に、残りはロリコンのオモチャ
にされていると聞きます。

このせいでアメリカでは子供を家で一人で留守番させるのを禁止させる法律まで出来たそうです。

日本でも最近同様の犯罪が多発しているのは承知のとうり、10年という流れに沿えば将来的には50
万人単位(国土等の関係もあるし、実際に50万人消えるとは考えられないけど)で日本でも子供が誘
拐され変態のオモチャにされる可能性があるのです。

もう一度言います。数々の凶悪な犯罪を生み出している背景には私たち一人一人の責任がある。事態
は急を要します、一人一人にできる事を探す事からはじめ、何かアクションを起こしましょう。

ふぅ〜なんとか、いい感じにまとまった(笑



素で面白くも何ともない話。

この前、ひょんなことから最近ニュースで話題の「自分と付き合っている大学生の親を殺して自分らも自
殺しようとした女子高生」のHPを見ました。

なんて〜か、可愛そうな子だね。

ニュースだけ見てると彼女の行動は理解に苦しむものであるけど、彼女の文章を読んでみれば、彼女
の苦悩、何に悩み、何を恐れていたのかが少し見えた気がした。

HPのURLを紹介したらマズイと思うんで書きません。どうせ、すぐ消去されるだろうし(汗


平成拾五年拾壱月二日を以て
以下文章の著作権を放棄致します


彼女のHPにはこのように書かれていました。つまり、11月1日に事件を起こし、その後、11月2日、自分
の文章を公開する。見て欲しい、知って欲しい。そう考えたものと思われます。事実、見られる事を前提
とした文章であったように思われる。

思うところが沢山あって、この人について分析してみたいと思います。

少しだけ例を。。。(この人の文章から)



ありえない数の人を、一日で見た


甲高い笑い声も、気品の無い仕草も会話も、
総てが吐き気を催すのに充分で

何も聞こえないほど音量を上げたイヤフォンを外してしまうと、
侮蔑の嘲笑で頭が一杯になって

私は
やはりこの世界には向いていないのだと再認識


何故、お前たちはそうやって

そんな場所で群れて居られるのか

そんなことで醜く大笑いできるのか

そんな己を恐ろしいと思わないのか


絶対、私は生まれる星を間違えた

(上記・下記ぜんぶ一部省略してます。)

彼女は典型的な対人恐怖症であったようです。人と目を合わせることが出来ず、人の話す言葉が全て
自分の事を話しているように感じる。
何故あなた達は他人の目を気にしないでいられるの?そう問いかけているように感じられます。あまり
にも精神構造の違う周りの人と自分を比べれば、私は他の人とは違う。間違えた。そう思っても仕方が
ないのかも知れない。


挨拶」というものは
どうにも難しいものですね。

基本は笑顔ですることらしく。
一体この掟のお陰で、難易度がどれ程上がった事か。


人見知りが激しく恥ずかしがり屋な僕は
誰かに挨拶をすることもロクに出来ません。


声をかけなければ・・・と思っているうちに
どんどん心拍数が上がって緊張し、頭が真っ白になって
その度、プレッシャーに耐え切れず
僕は相手を、刺すなり殴るなりで、殺してしまうのです。

特に、向こうから挨拶された時なんかは強烈で、
酷い時なんかは、頭を握りつぶしてしまいました。


そんな僕が、大勢の人の前に立てるはずありません。
小学生の時、体育館で全校生徒の前で何かの表彰状をもらいましたが
あまりのことに、幼かった僕はマシンガンを乱射してしまい
それ以来、ああいう場は控えています。

誰でもいいから、僕に挨拶を教えて下さい。
どうか、どうか。


これなんかもう絶句ですね。何で挨拶如きがって感じだと思うんですけど、挨拶するのには目を合わせ
るじゃないですか、下を向いてたら笑顔を見せれないし、多分、そういう事も気になるし、人と交わる事
が怖いんだから、くるなくるなくるな・・・そう思っていて来た時(声を掛けられた)だから緊張する。怖い事
と感じる。
そのうち、身体に挨拶は恐ろしい事と染み付いて、激しい拒否反応が自然に沸き起こるようになったん
ではないかと。
こっちが怖い怖いと思ってるから、向こうも何だこいつ?って違和感を感じて、悪い印象を持つ。だから
回りから浮く。悪い印象を与えた事でマスマス凹む。マスマス怖くなる。回りから浮いているからマスマス
人との接し方がわからなくなる。
マスマス人と接するのが怖くなる。。。んな感じで悪夢のような螺旋に埋もれていくんだと思う。


無理心中


さあ死にませう 死にませう
アタシは貴方を殺したいのよ

殺す 殺す 殺すから 絶対

生きている意味がないの
もう死んでるのさ 扉が見得る

貴方を置ひては逝けないの
アタシの為に泣くやうな貴方を


もう離す気がないんでせう
ならばアタシが殺めて差上げる

恐れなど感じなくて良ひのよ
其のやうな隙は与えてあげないから

死んで仕舞ひたいのよ

其れなのに貴方が咎めるから
アタシは貴方を殺さなくちゃあならない


恨めしや 正義を掲げる勇者よ
神は反旗を翻せと云ひ給ふた

愛なんて下卑た感情はとうに無く
只殺意のまま心中を望むばかり

鎮静剤も尽き 響く鎮魂歌(レクイエム) 断末魔
死ね死ね早く 息絶へてしまへ

血液と涙が流れていたと言ふなら
少しは救われた気にも成るだらうか


一面に広がる 絶望と血の海


コレなんて自分が親を殺して心中する全てを書きしるしてるじゃん。貴方は大学生か、もしかしたら自分
の家族の事を書いているような気がしないでもない。家族の気がする。
彼女の文の中では妹を可愛がっているような記述があった。きっと家族は彼女を愛し、必死に支えよう
としていたのではないかと思う。
(あくまで想像。実際はわからないが、家族が憎いって感じの印象は文章読んでてもなかったように思う
から。)
今まで何故家族も殺すのか理解出来なかったが、この記述が家族を指しているなら何となく理解できな
くはない。自分でもきっと自覚してる。だから無理心中。唯一のわがまま。
あまりにもかわいそうなその心理。
あまりにも繊細すぎたその心。
そんな人が決して少なくない事を皆さん知っていますか?駅に出て街行く人々の目を見てみてください。
歩く時、必ず下を向いている人は少なくないです。
また、それにプラスして音楽で耳をふさいでいる人も少なくないです。人々のざわめきを嘲笑と受け止め
る事は誰にでも経験があるでしょう。

俺はかなり前から気がついていた。こんな人間(若い人)が増えている事を。

自殺する人・引きこもり、心に問題を持っている人は大体みんなこの傾向があるように思います。

何故下を向くのか、何故人と上手く接せられないのか、それは自信がないから。
あらゆることに自信がない。自信がないからいつも不安。いつも回りが気になる。気にしてるから必要
以上に人の言動を(マイナス方向の言動を)重く受け止める。凹む。人が怖くなる。
その精神は疲弊し、いつしか、人では立っていられない程に。。。
でもそんな事、人には、家族には言えないよね。だから、一人で耐える。生きると言う事をひたすら耐え
る。気がつくともはや修正不能のところマでいっちゃうんだよね。多分。身体に深く深く刻まれるから。人
は恐ろしい者だと。

なんでこの文章を取り上げようかと思ったてかって〜と、最初の著作権を放棄するって文章がポイント。
悲劇のヒロイン、悲惨な自分を見て欲しい。まぁもう死んでいるんだけどね。閲覧者が見る頃には・・・っ
て言わんばかりのこの文章。
あなたのそのあまりに悲劇的な心理に答えましょう。世に紹介しましょう。俺なりの形でね。何でかわか
らんけど、何となくそう思った。

俺の見たHPの文章が本当に彼女の本心を反映してるのかわからない。それに、俺が書いた事は全て
想像に過ぎないんでそこんとこよろしく。
あくまで、俺がこうなんでないの?って想像した事で心理分析してるだけなんでまぁ間違いだらけ。適当
だらけなんでソこんとコよろしくね。。。文句あったら言ってクリ・・・クリクリクリクリクリクリクリクリトリ
ス。あ〜スッキリした(笑 下ネタ無しでは生きていけない男なんで勘弁して。

あとこんな文章書いてるけど、俺はバンピーなんで。まぁ日記読めばわかるか。なんか読み直すと書い
てる俺が超根暗みたいで嫌だな〜(汗



誰が為に鐘はなる・・・


俺がそもそもテキスト系サイトを書くようになった原因はあるひとつのサイトにある。そこのテキストに感
銘し、テキスト系サイトって面白いんでない?

ってことで大手テキスト系サイトを見に行ったのがスタート。


んでもって、一年ぶりくらいにそこのサイトが更新されていたので、そこのサイトの文章を読んでて、こ
れ、おもれ〜話だ。と思ったはなしがあったんで、皆に紹介します♪



内容は意訳してるんだけど、


人間は誰もが優しい。どんな人でも、お隣の将軍様も犯罪者も麻原もヒトラーもどんな人間も、例外はな
い。


ただ、その「優しさ」は選択的に働く。


ある人には優しく接するが、またある人にはそうではない。


人に他人の痛みは伝わらない。


人間は「別の人間」の痛みを共有するようにできていない。


他人の痛みを理解し、共有しようと試みる事は出来る。だが、それは自分が自ら率先して他人の痛み
を理解しようとした場合においてのみの話である。


元々、私たちは自分にふりかかる苦労や苦痛、面倒はできるだけ排除しようとしする。そこには、妬み
や嫉み、功名心や名誉欲といった感情も複雑に絡まってくる。


痛みを共有すれば「自分の死」に繋る。つまり、自分にとって時間的・経済的・その他あらゆる面で損失
になる。


友人、知人ならば痛みを共有する相手として選択される。人は優しさを持っていないわけではないのだ
から。


しかし、遠く離れた異国、見知らぬ人、縁のない人、触れたことのない人などは共有の対象として選択さ
れない。選択をしたとしても自分にとってドレほど大きな時間、金、その他などをかけるかには疑問があ
る。


こんなことを書いていた。かなり意訳。。。


だからどうだって事が書いてあったわけじゃないんだけど、俺が思うに、海外で苦しんでる人、国内で苦
しんでいる人を見て「かわいそう。」で済ます人も「1円募金したよ。」と言う人も責められないよね。


人間誰もが自分を犠牲にして他人を助けるなんて事が出来るほど強くはない。それは仕方のないこと
で、超越できないこと。


国家にその責任を押し付けるのもまた違う。もし、私たちにその気があれば自分たちなりの方法を模索
し、支援することはできるのだから。現にNGPでやっている人もいるし、もしやろうとすれば。。。


よく、「他人の立場で物を考えろ」と言うが、痛みを共有することすら出来ない私たちが、他人の視点で
ものを見ることはなおいっそう難しい。また、見ることはあっても見たことを他人の視点で実行するのは
至難の業であろう。


そこには自己の利益と言う概念が欠如しているから。自己の損益を省みず、無垢な心で人と接すること
は難しい。


何が言いたいんだか自分でも良くわかんなくて話がまとまんなくてテンパってんだけど、要は、人間


所詮、他人の痛みすら共有できないよ、んで、そのことを自覚して、
他人の痛みを知ろうとする人間になろうよ。


ってなことを言いたかった訳。


ただ、時に選択するのは仕方がない。複雑な人間関係の中にいるんだから。マザー・テレサになりたい
のなら自らの欲望を捨てなければならない。


自らの利害を超越した目で物事を見つめない限り、万人に優しくなど出来ない。そして、そこには様々な
矛盾が生じ、確固たる信念とそれを貫く強靭な精神が不可欠。


そんなに私たちは強くない。


だから試みるだけでいい。痛みを知ろうとするだけでいい。


他人の心の痛みの気が付けば、自分は前より人に優しくなれる。視野が広がる。それを成長と呼ぶ。


別にそんな難しく考えずに、楽観的に考えてもいい。


周りに痛みを持っている人がいれば助ければ良い、その方が楽しくなるじゃん♪暗い顔してる人が近く
にいたら自分も暗くなっちゃうよ。


痛みに気づいても何もしなくても良い。ただ痛みに気づいてる時と、気づいていない時では、無意識にで
も接し方が変わってくる。


気づく事で、前よりも少しでも優しく接っせるようになる。それが積もれば何か行動を生み出せるかもし
れない。


当然、行動することが必ずしもいいことではない。見守ることも、見放すことも、選択肢にはあるはず
だ。


昔の俺は、人に優しくしている自分が好きだった。人を助けている自分に優越感を感じ、頼られることに
存在意義を得るからだ。そのような人間時に勘違いする。


そのような人間の行動は大抵、自己満足に過ぎない。偽善だ。偽善が悪いとは言わない。良い方向に
向かっていることになんら違いはないのだから。


ただ、それが本当に相手のためになるか?という視点が欠落している以上、助けられる側の本当の助
けになるかは疑問がある。


まぁそんな事はちょっと人間やってりゃスグ気づくでしょう。


人の心は複雑だ。素直に行動できないときもある。精神が疲弊しているときもある。痛みが分かるゆえ
に冷たあたる事もある。優しさが迷惑なことも。痛みに気づくことで自らを自責することも、裏切ること
も、裏切られることも、そのことすら気づかないことも。


優しくすることで、傷つくことも、傷つけることもあるだろう。


でも、そんなことを繰り返しているうちに少しずつ、人の心理が分かってくる。もちろん、分かろうとすれ
ばだけど。


もしかしたらそんな気がするだけかもしれない、最強の勘違い野郎かもしれない、でも、勘違いに気づ
けば少しましな人間になる。


痛みに気づけば、どう接して良いか分からない時でも、気づく前よりは、ましな人間だ。


一人でも多くの人がこうして前を向いて行動すればちった〜世界もましになってくんではないでしょ〜
か。良い人も増えるだろうし。。。←書いてて話がまとまんないから、無理やり世界平和とかと繋げて一
件落着♪だって、書くのだるくなってきたんだもん(笑



自分の隣人の痛みを知ることでその優しさは隣人を伝って、世界中のどこにいる人にでも届くわけなん
だから。


俺→友人とか→友人とか→友人とかの友人→・・・→・・・→って行ったら、理論上、世界の何処の人に
でも回りまわって、優しさは届くから。


尚、この上の図↑は某映画をぱくったもんではありません♪

映画が出る前に、俺が小学生ぐらいの頃、こんな事を考えて、宿題の作文で書いて提出したことがあっ
たから。(証拠に作文もある。。。 パクったんじゃなくて、


俺がパくられたんじゃぁ!!著作権払えこらぁ〜←これが一番主張したかった
こと。。。







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